糸島食のわくわく協議会

糸島郷土料理「そうめんちり」について

RECIPE

そうめんちり

    ■材料

  • 骨付き鶏肉 600g
  • 5カップ
  • 糸こんにゃく 200g
  • 豆腐 1丁
  • 青ねぎ 2~3本
  • キャベツ(又は白菜) 1/2個
  • 玉ねぎ 1個
  • ごぼう 1本
  • そうめん 100~200g程度
  • 季節の野菜をお好みで

    ■調味料
    (九州醤油の場合)

  • 醤油 600g
  • 中双糖
    ※砂糖と醤油の濃さはお好みで調整してください。
    120g

    (普通の醤油の場合)

  • 醤油 100cc
  • 中双糖 100g

  • ※砂糖と醤油の濃さはお好みで調整してください。
    ひとつまみ

    ■作り方

  1. 水6カップに水の状態からぶつ切りにした鶏肉を入れ煮る
  2. ①が煮立て、鶏肉がやわらかくなるまで煮る
    (親鳥の場合は2~3時間煮ると柔らかくなります)
  3. ②に調味料(醤油・キザラ(中双糖))を入れ味をととのえる
  4. そうめんは茹でて冷水で洗い、一人分づつ丸めておく
  5. 食べやすい大きさに切ったごぼう、こんにゃく、豆腐、玉ねぎ、キャベツ (又は白菜)、青ねぎ等を③のスープに順に入れ味を染み込ませる
  6. 器に丸めたそうめんを入れ、⑤の肉や野菜を入れスープをかける
    (丸めたそうめんを鍋のスープであたためても美味しいです)

そうめんちりとは

糸島人のおふるまいの気持ちを込めた贅沢なご馳走

「そうめんちり」は、盆・正月等の来客の時、神社や公民館での地域の行事、田植え等、農家の手伝いの時など、人が集まる時のご馳走として「何かあったら、そうめんちり」と言われるほど親しまれた糸島郷土の味です。

そのルーツは明らかではありませんが、地元の方証言や文献資料から、怡土・雷山といった中山間地域を中心として盛んに食され、糸島全域に広まっていったようです。
かつて中山間地域では10~20 羽のにわとりを飼っている家が多く、その鶏をさばいて数々の鶏料理【鶏刺し、鶏皮で酢の物、鶏ごはん、がめ煮、そうめんちり】等で人をもてなすことが多く、「そうめんちり」は、残った鶏ガラや肉、たまひもを余すことなく使う鶏のコース料理のひとつでした。
近年では、鶏のそれぞれの部位が別々に手軽に買えるようになったことから、鶏をさばかなくても「そうめんちり」を作ることができるようになり、より身近な郷土の味として親しまれるようになりました。

「そうめんちり」の作り方は、鶏ガラや鶏肉を水炊きにし、醤油と砂糖で甘辛く味つけしたスープに季節の食材(ネギ、キャベツ、白菜、玉ねぎ、こんにゃく、豆腐など)を入れて煮込んだ「ちり」を作り、そうめんにかけていただきます。

その昔、そうめん、鶏肉、砂糖、醤油は大変貴重な贅沢品であったこともあり、【糸島人のおふるまいの気持ちを込めた贅沢なご馳走】それが「そうめんちり」でした。

味付けや食材は、地区や家庭によって異なりますが、親鳥をキザラ(中双糖)と醤油で甘辛く味付けして、季節の野菜をたっぷり入れるのが一般的です。

HISTORY

「そうめんちり」は、いつ頃から食べていた?

「そうめんちり」が糸島で食べられるようになった正確な時期は不明ですが、地元の方証言により、明治30年代(1897年頃)以前にはすでに存在していました。これにより、「そうめんちり」が糸島の伝統的な郷土料理であり、長い歴史を持つことが確認できます。
田植えや稲刈りなどの農作業を手伝う際の交流や、婚姻による地域間の関わりが、そうめんちりの食文化を広めるきっかけになったのかもしれません。

糸島のそうめん文化と地域の風習

そうめん

糸島では、初盆の家に子どもたちがそうめんをお供えする(5束7束など)習慣があります。
また、お盆明けには地域で集まって「そうめん」を食べる「そうめんごもり」「そうめん開き」という風習も存在します。
これらの風習は、そうめんが単なる食べ物ではなく、地域社会の文化や伝統の重要な一部であることを示しています。
又、一部地域では盆踊りで「そうめんが〜♪そうめんが来よる〜♪」といった口説きがあったりと、そうめんが来ることを楽しみにしている様子をうかがい知ることができます。
「うどん」や「すいとん」は自分でも作ることができますが、「そうめん」は熟練の技術を必要とすることから昔はとても高級品でした。大切な方への贈り物やお礼に「そうめん」を贈る文化は、こういった気持ちから生まれたのかもしれません。

糸島と素麺の歴史

福岡藩の儒学者・貝原益軒が記した『筑前国続風土記』巻之二十九 土産考 上によると、怡土郡高祖城の原田氏(鎌倉時代~安土桃山時代) に博多の商人が索麪(=素麺)を献上されていたそうです。
糸島は、素麺と古くからつながりがあったからこそ、素麺に対する文化や風習が根強いのかもしれません。

※『筑前国続風土記』巻之二十九 土産考 より抜粋
【博多索麪】索麪他邦に多しといへ共、博多に製するに不及。極品は其細か成事縷(いとすぢ)の如し。
鮮白にして賞すべし。原田氏怡土郡高祖城に在し時、博多の商人高田善四郎、始て索麪を製して捧ぐ。

原田氏は、平安時代末期頃から糸島地方を拠点として勢力を誇り、豊臣秀吉が博多を制圧した天正15(1587)年には高祖城に居城していました。明治から昭和初期にかけての著名な画家である冨田渓仙の語録を編んだ書籍『渓仙八十一話』(大正14年、下店静市 編著)によれば、渓仙の祖先は高祖城主 原田種直の重臣でしたが、その子、菊庵は聖福寺の僧とともに中国に渡り、素麺の製造技術を学んで帰国し、博多素麺の起源となったそうです。始まりを高田善四郎とする『筑前国続風土記』とはやや内容が異なるものの、博多素麺が高祖城主に献上されたとする記述との関連性がうかがえます。

素麺の製造

地元の方の証言によると、その昔、三坂(雷山校区)、大門(怡土校区)、波多江小学校近く(波多江校区)、西町(前原)、神在(加布里校区)など糸島の広い範囲で素麺が作られていました。

鶏のイラスト

鶏肉を使ったわけ

江戸中期ごろ、福岡藩では、享保の飢饉などで疲弊した藩財政立て直しの一環として、鶏卵を専売品として大坂方面へ出荷するための「玉子仕組」(鶏卵問屋) を立ち上げました。
領民には、ニワトリを飼って卵を生産することを奨励し、そのため、藩内各所(糸島を含む)で養鶏が盛んになったということです。
ニワトリは、もちろん卵をとるためにも飼っているのですが、大きな行事があるときは、そのニワトリを絞めてさまざまな鶏料理を作って、もてなしました。
肉はもちろん、モツ(内臓)まで無駄なく使い、野菜などと共に砂糖、醤油で甘辛く味付けした「そうめんちり」は現在でも糸島の郷土料理としてよく食べられています。
よく似た料理「鶏すき焼き」との大きな違いは水炊きから作るということです。

どうしてそうめんちりは甘いの?

砂糖

糸島では、砂糖の甘い味付けが好まれます。
糸島では古くから砂糖が手に入りやすい環境下にありました。甘い味付けに親しみがあったため、そうめんちりも甘い味付けが好まれるようになったのかもしれません。

糸島ゆかりの農学者宮崎安貞『農業全書』

元禄10年(1697年)刊行された農書『農業全書』は、中国(明)の農書『農政全書』をベースとしながらも、日本の農業に合うように自らの経験や地検が織り込まれています。
大変優れた農書として水戸の徳川光圀や8代将軍吉宗からも絶賛され、明治に至るまで長く版を重ねていきました。
旧志摩郡女原村(みょうばるむら、現在の福岡市西区)に隠居し、農耕のかたわら農業技術の改良に務めた宮崎安貞が書いた『農業全書』では、国益にかなう作物として、砂糖の原料となる甘蔗(サトウキビ)の栽培を勧めていますので、糸島でも栽培されていた可能性があります。

砂糖の流入は江戸時代⁈

現在「砂糖」は、料理に強い甘味をつける調味料として手軽に使用されていますが、江戸時代の半ば頃までは、海外から輸入するほかない、とても貴重で高価なものでした。
砂糖は主に交易港があった長崎を通じて国内に持ち込まれており、長崎街道を経て大阪や江戸に運ばれていました。また、長崎警護の任にあった佐賀藩や福岡藩、大村藩、平戸藩には、砂糖を優先的に購入する特権が認められており、それらの地域ではカステラやマルボーロ、鶏卵素麺、大村寿司といった甘いお菓子や料理の文化が生まれました。
(※近年、長崎街道は「砂糖を運んだ道」=『シュガーロード』とも呼ばれています。)
江戸や大阪では、砂糖がまだ薬として扱われていた頃に、博多には、すでに砂糖を専門に扱う店があったようです。

●博多津要録(江戸中期元文5年(1740年))には砂糖店の文字があることから、福岡にはその頃すでに砂糖店があったことがわかります。
●江戸買物独案内(江戸後期文政7年(1824年))にも江戸には砂糖店はなかったことがわかります。※江戸買物独案内は現代のガイドブックのようなもの。
そんなところから、糸島地域を含む福岡藩内では、砂糖の甘い味付けに親しんでいたのかもしれません。

糸島郷土料理研究会

糸島の風土と人々の暮らしに根差した郷土料理「そうめんちり」。
その歴史や地域ごとの特徴、そして代々受け継がれてきたレシピを詳しく探ることで、そうめんちりが持つ文化的価値を再発見し、次世代に確実に継承するための基盤を築くことを目的に、歴史的背景や地元の方の証言をもとに、今回の見解といたしました。

糸島郷土料理研究会一同